2004年 01月 15日
代々宮寺大工をしていましたが、祖父があまり体が強くなかったので、大工ではなくお菓子を作り始めました。
「神仏にお供えするものをつくりたい」という気持ちがあったようです。
-当時お菓子は珍しかったのでは。
明治41年に創業者が菓子博覧会で1等賞をとったそうです。
そのときのお菓子は今はありません。
明治40年頃今も販売している「鶴の子」ができました。
卵の殻の中に卵の白身と寒天を合わせて作ったお菓子を入れ、それを割って食べるようにしていました。
その後ゼラチンを入れて作るようになりました。
ゼラチンを使う発想は洋菓子です。
昔から和洋折衷というのが当社の得意なところです。
薄皮饅頭もそうでしょう。
父は昭和28年に洋菓子(ショートケーキ)を作り始めました。当社は昔から時代の一番先を行く、「創造と革新」を大切にしています。
昭和54年です。
その頃、新しい時代に新しい洋菓子を作りたいと思い「ボンサンク」を始め、洋菓子は「ボンサンク」、和菓子は「石村萬盛堂」と店を分けました。
自分の名前"善悟"をフランス語でいうと何になるんだろうと思ったら、ボン(=善)サンク(=五)で、これはいいと決めました。
当時は技術がなかったので、とにかくいい原材料を使って作り、パッケージにも力を入れました。
焼きっぱなしのケーキにチョコレートをかけたショートケーキを作ったところ、これが当たりました。
このタイプだと小さいパッケージのものも作れます。
当時は生クリームのケーキに力点がおかれ、本格的な焼き菓子はあまり力が入っていませんでした。
それがフィナンシェなどの小さな焼き菓子をかごに入れたり、パッケージするとギフトにできるというアイデアに結びつきました。
その頃のお菓子のギフトというとクッキー、チョコレートといった乾いたお菓子の世界でしたから、そうではない半生は、持ち運びしても生クリームのケーキのように商品がずれることがないし、生より日持ちがする、個装なので食べたい分だけ食べるという点が新しかったんです。
いきなりはヒットしませんでした。
半生のものが一番売れる市場は何かと考え、結婚式場だと思いました。
しかし、引き出物は水引がついているなど縁起をかつぐ意味合いで和菓子が多かったのです。
でもお菓子屋として悔しいけれど、大きな羊羹やお饅頭をもらっても実際は捨てられているので、これからは食べておいしいということが必要だと、出したところそれから売り上げが伸びました。
「塩豆大福」は一時期売り上げが落ち始めました。
お客様から量を少し減らしてほしいとの要望があったので、サイズの小さい「塩豆小福」を出しました。
しかし売れませんでした。
「小福」というと、お客さんは大福の偽物との印象を持ちます。
それで名前を変えて「塩豆大福 小ぶり」としたところ大ヒットしました。
僕は最初からマーケットインの発想です。
商売はどれだけお客様に喜んでいただけるかが勝負です。
それをシステム化したのが、「天の声」です。
これはお客様が何気なく漏らされた声を売り場の店員それぞれが書いて提出するものです。
これはすごくいい。
新製品を出しても反応がたちどころに出てきます。
また、お客様から社長室に直接届くハガキもあります。
細かいことではなく、お客様が第一、お客様の喜ぶ姿に喜びを見い出すといった話をします。
これからの時代は儲けを先にするとお客様が離れていきます。
専務である妻とニ人三脚でお菓子づくりに取り組まれているお姿をずっと拝見してきて、いつも積極的、ポジティブシンキング、そしてアイディアマンという印象を受けます。
そのバックには、"お客様の声を聞く"という原点が、変わりなくあることを嬉しく思いました。
これからもどんな新製品を出されるのか、どんなコンセプトの新しい店づくりをしていかれるのか注目したい企業さんです。
会社概要 社 名 株式会社 石村萬盛堂 |